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『千秋公園を思い出して歌を唄ったのかも…』
東海林太郎(しょうじ たろう 1898-1972)は秋田が生んだ戦前を代表する歌手です。「直立不動の姿勢で歌う」と言うと思い出す人も多いかと思います。以下は、後援会機関誌に寄せた東海林太郎の文章の抜粋です。
■郷土に寄する言葉
私の故郷の家は、佐竹侯のお城跡の、山のすぐ下にありました。私は子供の時から、よく裏の山へ駆けのぼり高い松の木にのぼっては、脈々として続く奥羽山脈を仰いだり、遙かに男鹿半島を望み、はてしなくひろがる日本海を眺めながら、いつも、聲を限りに歌をうたったものでした。かうして私は殆ど誰からも教わることなく、故郷の四季折々の姿を心に写しては、歌をうたってきました。この懐かしい故郷こそ、私の最初の、そして最大の音楽の先生であったと考えて居ります。
今も太郎少年が登った松がどこかにあるのかもしれません。
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哲学を楽しんでください
千秋公園の西側は、落ち着いた雰囲気です。御隅櫓の裏の階段から下りると東屋があります。静かで風もさわやか。散策の合間の一息に!
埋門跡から坂を下りてまっすぐ進むと茶室宣庵に。宣庵の庭園には外待合いがあります。そこから見える本丸の南の突端が、天守に見立てられ、霊泉台ともいわれた御出し書院跡です。霊泉台は、宣庵の庭の池がその由来といわれています。外待合で、季節の木々の彩りを眺めながら、しばし考え事などでもしてみては?
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『与次郎キツネの悲しい物語』
初代藩主義宣公が久保田城を築城する際、住む場所を安堵してもらったことに恩義を感じた狐が那珂与次郎という飛脚になり、秋田と江戸を六日で往復する活躍で忠節を尽しました。
しかし、その活躍をよく思わない飛脚たちが油揚げに毒を入れて殺害。すると不幸なことがいくつも起こり、村人たちはきっと与次郎の祟りだと畏れ神社を建てて手厚く葬りました。それを知った義宣公はひどく悲しみ、庭に稲荷神社を建て与次郎を祀りました。
これが現在の千秋公園の与次郎稲荷神社だといわれています。山形県東根市にも同じ由来の与次郎稲荷神社があります。
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丸く窪んだ石
二の丸から表門へ通じる長坂の石段を注意してみて下さい。平らな石は新しく取り替えたものですが、丸くくぼんでいる石の中には、初代藩主義宣公が久保田城を築城した当時のものも。どれほど多くの侍が踏んだものか、思いをめぐらせてみてください。
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千秋公園にも秋田蕗
御物頭御番所の近くに大館から取り寄せた秋田蕗畑があったそうですが、現在でも、本丸の与次郎稲荷神社の前の「歩兵第十七聯隊之碑」の台座を覆うように「秋田蕗」が生えています。
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秘密です!
千秋公園には、第二次世界大戦の際にいくつかの防空壕が掘られたようです。本丸の滝や水流れ、二の丸の胡月池には、その中の一カ所に溜まった雨水が使われています。その防空壕がどこにあるのかは秘密です。
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これはなんでしょう?
この木は、二の丸から本丸へ向かう長坂の途中にある松です。深く傷ついていますが、これは戦争中に松ヤニ(油)を採るために傷をつけたものだそうです。このような松は、長坂ばかりにではなく本丸にもかなりあります。ちなみに、精製した油の品質は悪かったそうです。
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千秋公園活性化協議会について
秋田を象徴する貴重な地域資源である千秋公園およびその周辺の魅力を最大限引きだす事により、旧城下町地域のにぎわいの再生、千秋公園およびその周辺における良好な景観の形成、来訪者の安全安心の確保などを図るため、千秋公園を拠点として活動する市民グループや周辺商店街、伝統芸能団体、交通・観光団体、市、県など31団体で、平成19年8月21日に設立されたものです。
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